親より先に死んだら親不幸?
むかしは、「親より先に死んだら親不孝。」「水子は成仏できない。」などという人の傷口に塩をすりこむような無茶な伝承がありました。
なぜ、そんな無茶なことを言うのでしょうか、信じられません。
この言い伝えの根拠は、生きている親より先に死んでしまって、親を悲しませるから親不孝だというのですが、そんな無茶な話はないでよね。
なんの罪もないのに、納得がいくわけがありません。
子は親に従い、老いては親は子に従う。
封建時代ならともかく、現代には全くマッチしないどころか、反発さえ感じます。
仏教には、自分の子どもが亡くなったことを悲しみ、お釈迦さまになんとか、生き返らせて欲しいと懇願したら、お釈迦さまが、「死人が出たことのない家からケシの実をもらってきなさい。」と言われたそうです。
結局のところ、死人が出たことのない家などあろうはずもなく、はかない娑婆世界の無常を感じるというお話です。
そんな先に死んだら親不孝などのいう伝承は、無視していいと思います。
三途の川で石を積む
これもまた、すごい話なのですが、親より先に死んだ子は、三途の川で、親を待ち、親と一緒に三途の川を渡るのを待つというものです。
三途の川のほとりには、賽の河原があって、そこで石を積んで親を待つのですが、鬼がやってきてせっかく、積んだ石を崩してしまいます。
なんて意地の悪い鬼でしょうか。
そんなときに、お地蔵さまが現れて子どもを救ってくれるのです。
ですから、水子供養とお地蔵さまは切っても切れないのです。
これも、早く死んだら、親を悲しませるから親不孝的な、何とも言い難い無茶な言い伝えがあります。
そんなことは決してありません。
人は亡くなると、七日ごとに、閻魔さまの裁きを受けます。
閻魔さまは、大きな鏡を置いた裁きの場で、その人の生きざまを明らかにしていきます。
いいこと、悪いこと、やってきたこと、言ってきたこと、すべてを閻魔さまの 前で明らかにしていきます。
悪いことばかりしてきた人は、自らの罪で地獄へ、世のため人のために活躍した方は仏さまになったり、極楽浄土に行きます。
さて、子どもたちはどうでしょうか?何一つ悪いことをしていない、つみけがれのないこどもたちは、迷わず仏さまや、極楽浄土に向かっていきます。
連れて行ってくださるのは、阿弥陀さま、お地蔵さま、観音さまなのか、あるいは、ご先祖さま、おじいちゃんやおばあちゃんなのかはわかりませんが、いずれにせよ、子どものまま亡くなった子は、迷わずに、救われます。
水子供養は不要か?
救われているからと言って、供養はいらないとは言えないと思います。
あなたが自立して一人暮らしを始めたとします。
生活に困らない、毎日充実していたとしても、寂しい時ってあるのではないでしょうか?お母さんの味噌汁を飲みたいな、とか、その家にはその家独特の香りがありますよね。
大人になっても寂しい時は寂しいものです。
ましてや、子どものうちに、何にもわからないうちに、違う世界に旅立ったのですからね。
供養は「おもてなし」です。
供養しなければいけないなどという切迫感からではなく、純粋に子どもに対する愛情、おもいやりが供養だと思うのですが、いかがでしょうか。
水子供養はいつまで続けるのか?
いやあ、供養って、「おもてなし」の気持ち、思いやりだと思うので、そう考えると、いつまでということにはならないと思います。
親が亡くなって、その思いはずーと心の中に残るのではないでしょうか。
何年たったらおしまいというものではないと思います。
ただ、年忌、3回忌だから、7回忌だから、坊さんを呼んでお経を上げてもらウということではなく、本当に自然に、自然に、亡くなった日をご命日として、お菓子でも、ジュースでも、タンスの上に置いて、手を合わせる。
「向こうで、元気でやっていますか?」「大丈夫?」「頑張ってね!こちらからいつも応援しているからね!」そんな、気持ちが大切なのではないかと思います。